圧倒的多数の人は普通の人という考え方の間違い | 定年起業のためのウェブコンサルティング

圧倒的多数の人は普通の人という考え方の間違い

普通

圧倒的多数の人は普通の人で、本当に特別な人などほとんどいないと考える人がいます。

そういう人は、多くの人が主役として頑張ろうと、過剰にあおられ追いつめられていると考えています。

自分の長所を探すことに心底苦しんでいるとも言っています。

ひとりひとりは違う特性を持つ人

このような考え方の根本的な間違いはどこにあるでしょうか?

圧倒的多数の人は普通の人と考えているところにあります。

普通の人とはどういう人でしょうか?

身長も体重も平均の上下1σ以内の人?

ちなみに「σ」とは標準偏差のことで、正規分布では平均の上下1σ以内に約68%が入ります。

ここでは、それは重要ではなく、数字で表されるものであれば、何とか「普通」を定義できるかもしれないと書いてみただけです。

体力はどうでしょうか?

学生時代に体力テストをやりました。いくつもの種目がありました。50m走は6.6秒、1500mは5分30秒の人と、50mは7.0秒、1500mは5分10秒の人では、どちらが体力があるというのでしょうか?

同じように統計処理をすれば、差はつけられます。

それでは、知的な能力はどうでしょうか?

知的な能力もいくつかの要素に分解できます。要素別に点数化することもできます。しかし、体力もそうですが、すべての要素を洗い出すことができません。

すべての要素がわからない以上、全体を点数化することもできません。

容姿になるともっと複雑です。そもそも基準がありません。好みが人により異なります。

つまり、「普通の人」などと、ひとくくりにすることはできません。

人は皆、ひとりひとり異なっています。ひとくくりに評価する方法はありません。そのため、普通の人など定義することはできません。

特別な人とは

それでは、「特別な人」とはどういう人でしょうか?

ウサイン・ボルトなどは、「特別な人」と言えます。100mや200mを早く走る能力では飛び抜けています。

しかし、それは陸上競技の短距離走があるために、目立っているだけです。

サッカーの有名人も、サッカーという球技がなければ、有名になることはありませんでした。野球の有名人も同じです。

たまたま、環境と能力がマッチしたために能力を発揮でき、有名になっただけです。

「特別な人」とは、環境と能力がぴったりとマッチした人のことです。そういう人はほとんどいないと考えることは、妥当かもしれません。

ひとりひとりが頑張る

人は自分の能力を十分に発揮できる環境で頑張ろうとします。それは自然なことです。

自分の長所を見つけ、その長所を活かせる仕事を探し、長所をさらに伸ばそうとします。

それは健康的なことです。すべての人がそのような活動ができる社会こそ、目指すべき社会です。

しかし、その行動を過剰にあおられ追いつめられていると言う人がいます。自分の長所を探すために心底苦しむとも言っています。

それはなぜでしょうか?

私には、有利な環境にいる人が、そうではない人が頑張っている姿を揶揄しているとしか思えません。

「キャリアポルノ」「意識高い系」「身の程を知れ」「分をわきまえろ」といった言葉を使う人と重なることが、それを裏づけています。

社会的・経済的に恵まれた立場にいる人が、そうではない人の努力を揶揄しています。そこには自分の立場が脅かされる恐怖が隠されています。

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