ネットが不自由で窮屈になった真相 | 定年起業のためのウェブコンサルティング

ネットが不自由で窮屈になった真相

島
credit: Grand Parc – Bordeaux, France via FindCC

昔は、ネットを使う人が少なかったから、何でも書けたし、リテラシーの低い人も少なかったと懐かしがっている記事を読みました。

確かにネット人口が増え、すそ野が広がった結果、リテラシーの低い人が目立つのは事実です。

しかし、何でも書けたということには違和感を感じます。単にまずいことを書いても誰にも気づかれないため、問題にならなかっただけです。書いてはならないことは、昔も今も変わりません。

ネットを匿名だと感じるのは、錯覚に過ぎません。警察権力を持って調べれば、ほとんど個人を特定できます。それは、今も昔も変わりません。実際に、脅迫罪や威力業務妨害罪などで刑事罰を受けた人もいます。

テレビを見るようにネットを見る人

ネットが広まった結果、一番増えたのは、酒でも飲みながらテレビを見て、文句を言ったり、寸評したりするかのように、Twitterなどでネットにコメントを書きこむ人です。このような人は、何も考えずに脊髄反射のように反応します。

テレビを見ながらの文句は、一緒に見ている人しか聞いていません。聞きたくなければ、一緒にテレビを見なければすみます。ひとりで見ていればひとりごとに過ぎません。

それをネットで公開するから、見た人が不快になります。本人は公開されていることも知らないのかもしれません。

ネットが不自由で窮屈になったという人は、このようなテレビを見ながらの文句や寸評のごときコメントを不快に思っています。

スルーすればいいだけの話ですが、それでも大きな心理的ダメージとなる人もいます。するとネガティブなコメントを嫌って、書きたいことが書けなくなります。

どうしてもスルーしきれない人は、コメント欄を閉じ、Twitterなどのソーシャルメディアを同じアカウントではやらず、エゴサーチをしないという手があります。読者の反応はPVぐらいでしかわかりませんが、やむ得ないでしょう。

意見を公開するということは責任を負うということ

いざとなったらアカウントを削除して逃げられるように、匿名のアカウントにしている人がいます。個人を特定しにくくなるように、普段から偽の情報を混ぜて発信していると、公言する人もいました。そのような人の情報は読むに値しません。

言論の自由があるということは、言論の内容に責任を持つということです。責任を持てないことを公の場に公開すべきではありません。どうしても書きたいならば、誰にも読まれない日記に書けばいいことです。

これは、ネガティブな反応が嫌だということとは違います。自分で責任を持てないことを公開したいという欲求は、現代社会では認められません。不確かなことは、不確かだという条件付きで書くことはできますが、書いたことには責任が必要です。

昔は、そんなことを言う人もいなくて自由だったと感じるならば、それは昔のネットの使い方が間違っていたということにほかなりません。

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