言論の自由とは国家権力を批判できること | 定年起業のためのウェブコンサルティング

言論の自由とは国家権力を批判できること

拘束

日本において、国家権力を批判したことを理由として逮捕されなくなってから、まだ70年しかたっていません。

右翼と左翼の頭の中を想像してみる』にも書いたように、まだ日本にも、言論の自由よりも、天皇を中心とした古い日本の価値観が大切だと考える人もいます。

世界には国家権力を批判することが、そのまま命の危機にかかわる国も珍しくありません。

そんなときに『言論の自由は今でも命がけ』というエントリを見かけました。

暗殺なんて考えた時点でその人の生活から挙動からメールから購買行動まで、すべてが監視下に置かれる、みたいな

(それはそれでメチャ怖い)完全監視社会が来ないと、言論の自由を確保するなんて無理なのかもと思った次第。

出典:Chikirinの日記

確かに日本にも、気に入らない意見を言う人を殺したり、脅迫したりする人はいます。しかし、それを実行したときの代償は殺人罪や脅迫罪です。

罪を犯しそうな人を完全な監視下に置くという発想に違和感を覚えます。監視するのは、警察のように国家権力と密接につながった組織になります。国家権力を批判するだけで監視されることになるのは、火を見るよりも明らかです。

その前のエントリである『「権力に対抗しうるメディア」実現の条件 – Chikirinの日記』のほうがまだましです。

「技術によって完全匿名性を確保できる機関」ができてはじめて言論の自由が確保できるという意見です。

技術によって完全匿名性を確保できるかどうかはわかりません。警察の情報を接続経路を匿名化するツールであるTorを使ってばらまいた事件が、未解決ではあります。

しかし、仮に完全匿名性を確保できる技術を使って配布された情報が存在したとしても、その信憑性が確保できません。

よい例が2ちゃんねるです。2ちゃんねるは完全に匿名ではありませんが、普通には誰が書いたものかはわかりません。そこに書かれた情報の真偽は、その情報そのもので判断するしかありません。

情報の信憑性は発表元に依存します。どの組織あるいは誰が公表した情報だから、その組織なり個人のバイアスがかかっているという条件のもとで、信憑性は判断されます。

ある程度の信頼性を持ったメディアであれば、現在の日本でも情報提供元の秘密は確保されます。

言論の自由に必要なものは、完全匿名性が確保できる技術ではありません。

大切なことは、国家権力の批判を自由にできる社会であり、さまざまなメディアが自由に意見を表明できることです。そして、その情報の妥当性を判断できる知性が必要です。

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