インターネットに「世間からの自由」があったのは利用者が少なかっただけの話

インターネット

昔のインターネットを懐かしむかのようなエントリをときどき見かけます。最近もありました。

インターネットの自由と世間様 – シロクマの屑籠

たぶん、昔インターネットをはじめた人が考えていた自由とは、「自分の表現したい事を、誰にも文句を言われることなく表現できる」自由だったのだと思う。少なくとも私がネットサーフィンしていて感じたのは、それだった。あとは「表現されているものを誰にも文句を言われることなく閲覧する自由」。世間に対する呪詛も、いかがわしいエロも、書いたって構わないし眺めたって構わない――「インターネットは自由だ」と言った時に多くのユーザーが無意識のうちに含意していたのは、表現するにせよ、閲覧するにせよ、そういった「誰にも文句を言われることがない」という修飾語のついた自由だった。イコールではないけれども「無責任」というレトリックにも近かったかもしれない。

昔のインターネットは、何を書いても誰にも文句を言われなかったということです。

それは、ほとんど誰も見ていなかったからに他なりません。見ていたのは、ごく一部の知り合いぐらいです。だから、誰にも文句を言われなかったのです。

そのような環境が好きならば、今でも再現できます。

自分だけが読めるノートに書けば、自分以外の誰も見ない代わりに、何を書いても誰にも文句を言われません。公開すれば犯罪になることでも書けます。

もう少し緩めるならば、お互いに気心の知れた少数の知人だけのグループを作り、そのグループ内のみで共有することもできます。その場合、誰かが裏切り、グループ内の投稿を外部に漏えいするリスクはあります。

私には、この昔のインターネットを懐かしむ気持ちが理解できません。インターネットに「世間からの自由」などを求めることが間違っています。

読むに堪えない罵詈雑言、誹謗中傷もしばしば目にしました。そうした汚物の中に、たまに役に立つ情報を見つける感じでした。

インターネットは個人が情報を容易に発信できる公共の場です。インターネット登場以前には不可能であった無名の個人の情報発信が、誰でも簡単にできるようになりました。

技術の進歩がようやく作り出したインターネットの場を、一部の利用者が汚い言葉でよごしています。

インターネットでどのような情報を発信しようが自由です。しかし、自由には責任が伴います。発信した情報には責任を持たなければなりません。

法に違反する情報を発信すれば逮捕されます。他人を貶めれば、名誉棄損で訴えられる可能背があります。当然のことです。

インターネット利用者の増加に伴い、インターネットが公開の場であり、通常の法律が適用される場であることが知られるようになりました。

昔に比べれば、はるかに役に立つ情報を見つけやすくなっています。これはインターネットの進歩です。

議論が分かれることについて自分の意見を発表したければ、批判を覚悟して発表すればよいのです。批判する人もいれば、賛成する人もいます。

意味のないTwitterやはてブのコメントは無視することが賢明です。多くのコメントは、全文を読まず内容も理解していません。そんなのものを相手にする必要などありません。

自由な意見を表明するためには、それだけの強さが必要です。

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