恥ずかしがりやは自己肯定感が高いという意外な事実

自己

自分では自己肯定感が低いと思っていても、実は高いことがあります。恥ずかしがりやはその典型です。

自己肯定感に関して、あるエントリを見つけました。

セルフイメージが低い人ほど実はセルフイメージが高い?!その理由とは : 好きを仕事にする大人塾「かさこ塾」塾長・カメライターかさこのブログ

「自分はいろんなことができるんだと、
セルフイメージが高すぎるため、現実にはできないことが多く、
そのできないことの差を感じてしまうから、自分はダメだと思ってしまう。
そこでその差=不満を解消するために、
じゃあセルフイメージを低くしてしまえばいいということになる」

ここでいうセルフイメージとは、自己肯定感と同じだと思います。

中島敦の『山月記』をもう一度引用します。

人間であった時、おれは努めて人とのまじわりを避けた。人々はおれを倨傲だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとはいわない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。おれは詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、おれは俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心とのせいである。おのれの珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、又、おのれの珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。おれは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによってますますおのれの内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。おれの場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。

出典:中島敦 山月記

こちらでは、「自尊心 = 自己肯定感」です。

自分には才能があると信じています。自己肯定感が高い状態です。

ところが、羞恥心のため、師についたり、仲間と切磋琢磨することができません。そこには、師や仲間と一緒に学べば、自分に才能のないことが分かってしまうかもしれないという恐れがあります。その恐れが恥ずかしさに転化しています。

しかし、自分には才能があると思っています。才能をあきらめることはできません。

自分には才能があるという自信と、師や仲間と一緒に学ぶと化けの皮がはがれてしまうかもしれないという怖れすなわち羞恥心との葛藤です。

こわさと恥ずかしさを克服することなく、何もしないでいると、才能が開花することはありません。才能が開花するためには、長期間の合理的な鍛錬が必要です。『山月記』の悲劇は、こわさと恥ずかしさを克服する勇気を持たなかったためと言えます。

先のエントリでは、自己肯定感が高いにも関わらず、現実にはできなことが多いため、その不満を解消するために自己肯定感を落としているということです。

できないことを克服するのではなく、自己肯定感を下げることで不満を解消しているのです。

しかし、そこには心の葛藤が生じます。自分はもっとできる。こんなレベルの人間ではない。こんなものではないという葛藤です。『山月記』の葛藤とよく似ています。

その葛藤が他人への攻撃につながります。自分ができないことができている人を攻撃し、引きずり降ろそうとします。ネットで匿名のまま他人を攻撃する人の典型的なパターンです。

どちらにも共通しているのは、自ら行動しないことです。

恥ずかしいからと行動しない人、自分にはできないからと行動しない人は、何も変わりません。

そこに必要なのは勇気です。恥ずかしさを克服する勇気、できないことにチャレンジする勇気です。失敗するかもしれないことをやってみる勇気こそ、自分を変えるために必要なことです。

失敗してもやり直しできるならば、失敗を恐れる必要はありません。失敗したら殺されることをやろうとしているわけではありません。

何度でもやり直しができるように戦略的に計画を立てて実行することが、勇気ある行動をすることそのものになります。

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