日本には不合理な精神論がしばしば現れます。太平洋戦争などはその典型で、竹やりで原爆に立ち向かおうとしました。
この傾向は、スポーツの世界に長らく残りました。私が中学生の頃には、「根性さえあれば何でもできる」とスポ根ものと言われた漫画が流行りました。
アンチテーゼ
1975年ごろには、根性シリーズと言われたクイズが流行りました。
「おじいさんがリヤカーを引いて、新幹線よりも早く走った。どうしてか?」
「猟師がスズメを撃って、弾が当たったが、スズメは落ちなかった。どうしてか?」
といったクイズです。
答えはいずれも「根性があったから」です。
根性なるものさえあれば、何でもできるという風潮に対するアンチテーゼだと思いました。
衰えた精神論
その後、スポーツの世界では、精神論は衰えていきました。精神論に頼らず、科学的、合理的な練習で成果を出していきました。
オリンピック等で好成績を残すようになったのもこのためです。
亡霊のように現れる精神論
ところが、精神論がなくなったわけではありません。一部では根強く残っています。
日本経済新聞にこんな記事がありました。
〈本田道〉選手の育て方(中) 世界で勝つ心身鍛錬 修羅場くぐった者が残る :日本経済新聞
日本人は体格で欧米人に劣るため、筋力トレーニングで体を鍛えることの必要性に触れています。そのとき、ハードワークと精神面が連動すると主張しています。
例えば、無意味と捉えられがちな長時間の走り込み。「体には良くなかったりするけれど、矛盾に立ち向かって心が折れないメンタルは養われる。体は限界に来ているけれど気持ちでもう1本行くとか。その気持ちを育むトレーニングだから意味はある。昔の高校の先生方はそこまで考えておられると思うんですよ」
出典:日本経済新聞
体力を最大限に発達させる負荷をかけるのではなく、体には悪いほどの負荷をかけることにより、「矛盾に立ち向かって心が折れないメンタル」を養うと言っています。
よくわかりません。
体を鍛えるための訓練で、体を壊す負荷をかけることにより、精神面を鍛えるというのです。
これは精神面を鍛えることにはなりません。体を壊す負荷をかければ、実際に体を壊すか、体を壊さないような工夫を無意識のうちに行います。すなわち手を抜きます。
無理な訓練を強制され、表面上は従っているように見えますが、潜在意識では訓練を強制する人を恨み憎んでいます。
その矛盾を経験することが、精神面を鍛えることにはなりません。
真に精神面を鍛えるならば、このような理不尽な訓練を強制する人に、体を壊す恐れがあるから、そのような訓練は行わないと、きちんと言える勇気と行動力を持つことです。
そのために、その後の練習等で不利益を被るかもしれません。レギュラーを外されるかもしれません。それでも真の目的のために、最も合理的なことを行うことが大切なことです。
おわりに
科学的な訓練を行う現在の日本のスポーツ界に、このような不合理な考えが残っていることは不思議ではありません。
人間は過去の経験を正当化しがちです。過去の経験を完全に間違いだったと認めることはなかなかできません。
その人間の傾向を知ることにより、精神論という過去の亡霊を消し去ることができます。