人類の進歩とは、本人に責任のないことで差別されることがなくなることだという説があります。
歴史は間違いなく差別がなくなる方向に動いています。米国でキング牧師が暗殺された1968年当時は、黒人の血を引いた米国大統領が誕生することを想像した人さえいなかったと思います。
日本で女性が参政権を得たのは1945年です。男女雇用機会均等法施行は1986年です。いずれもそれほど昔の話ではありません。
生まれによる差別や性別による差別は、少なくなったとはいえ、まだ厳然と存在しています。これからも人類は、差別のない社会に向かって、進歩していくことは間違いありません。それでも、人類に最後まで残る差別は何でしょうか。
人類に最後まで残る差別
能力です。
人に生まれながらの能力差があることを認めない人たちがいることは承知しています。
しかし、誰もが環境に恵まれて努力さえすれば、オリンピックの100m走で優勝できるわけではないことを、多くの人は気づいています。オリンピックの100m走で優勝できる人は、オリンピックのマラソンで優勝することはないことも、気づいています。
人には知的な面でも肉体的な面でも様々な能力があり、それぞれの能力の面で優れている人とそうでない人がいます。ある種の能力と別の種の能力は相反する関係にあり、両方の能力で人類のトップクラスでいる人はいません。
能力は環境や努力により向上しますが、生まれながらの素質に依存する面もあります。生まれながらの素質と環境と努力と、何が一番影響するかは、能力の種類によっても異なり、複雑です。人間の能力をどのように分解できるかも、諸説があり、決定的なものはありません。
しかし、ある種の能力が高い人は、社会に適応しやすく、裕福になる確率は高そうです。能力の差が生まれつきの素質に依存する面があるならば、それにより、裕福になる確率が異なることは、能力による差別といえます。
男性が女性よりも雇用を得る確率が高い社会は、性別による差別があるといえるのと同じ理屈です。
能力により、待遇が異なるのは当たり前と考える人も多いと思います。しかし、江戸時代の多くの人は士農工商を当たり前と考えていたように、どのような差別も、当たり前で差別ではないと考える人たちはいます。むしろ根強い差別ほど、それを差別と考えない人は多いものです。
現代の日本では
業績評価が導入された企業では、業績により報酬や待遇が変わります。たとえ業績が事業環境や職場環境により規定されてしまったとしても、無理矢理、個人に結びつけて評価するのが業績評価です。
その前提は、業績は個人の行動の結果であるという哲学です。そして、行動はその個人の能力に大きく依存します。企業社会は能力によって、報酬や待遇を決定する社会ともいえます。現代社会は、能力による差別が存在し、それを差別と認識している人も少ない社会です。
そんな時代でも、人類は差別をなくすように進歩します。人には様々な種類の能力があります。画一的な企業社会に適した能力を持たなくても、他の面で能力を発揮できる人は、その方面で活躍できます。企業社会に適応したくない人が、独立し、起業したり、フリーエージェントとして働くようになってきていることがそれを示しています。
人の欲求の面から考えても同様のことがいえます。人の欲求は、いくつかの要素に分かれ、どの欲求が強いかは人により異なります。
アメリカの精神科医ウイリアム・グラッサー博士が発表した選択理論によると、人間の基本的欲求は、愛・所属、力・価値、自由、楽しみ、生存の5つです。例えば、自由と楽しみの欲求の強い人は、それを実現しやすい生活を目指せば良いのであり、力・価値の追求を目的に家族的な愛・所属意識でしばる企業社会に拘束される必要はないわけです。
結論
人類の進歩とは、差別がなくなっていくことであり、それは様々なタイプの人が、それぞれに適した生活をすごしやすい社会になっていくことです。
【2014年10月31日修正】
読みやすくなるように、見出し、改行、空行を追加しました。