ウェブの世界と現実の世界は、切り離すことのできないものとなっています。少し前までは、ウェブにアクセスするためには、机の上のパソコンを使うしかありませんでした。現在は、スマートフォンと高速無線通信の発展により、手の中の小さな端末から簡単にアクセスできるようになりました。
その結果、ウェブの世界と現実の世界は密着し、どのように折り合いをつけるべきかに悩む人がでました。「現実の空間」に、ウェブから様々な情報が出入りする状態のことを、本書では「現実の多孔化」と呼んでいます。
この現実において、他者との関係をどうするかが、本書の課題です。もはや、物理的な距離が近いことは、心の距離が近いことを意味しません。他者と生活体験や感覚を共有するための手段であるセレモニーや式典の意義も変わってきます。
筆者は、現実の共同体がこの多孔化により分断されることに危機感を持っています。物理的に近くに住んでいても、ウェブを通じてつながっている世界の違いにより、分断が発生します。例えば、近所に住んでいても、テレビ漬けの人と毎日TEDで英語の講演を聞いている人との間には、分断があるということです。
筆者にとって、現実の共同体は、空間を共有することにより、継承されるべき意義があるものです。そこでは、定期的に執り行われる儀式により、より強固に共同体の記憶が育まれます。特に、戦争や大災害のような「共同体に向けられた死」をともなう悲劇は、記憶され続けなければならないと考えています。
共同体の構成員がそれぞれウェブを介して、独自のコミュニティとつながることは、「現実の多孔化」であり、現実の共同体を破壊するものだとしています。現実の共同体を維持していくためには、その空間をあらためて儀礼化し、意識的に聖地にしていくことを主張しています。
私には、筆者がなぜ現実の共同体をそこまで重要視するのか理解できません。「現実の多孔化」により現実の共同体が分断されることは、技術の進歩がもたらした必然です。
現実の共同体もインターネットを介した共同体も、特に区別する必要はありません。交通網の発展した現在においては、インターネットを介した共同体も容易に現実の共同体に変わります。必要に応じて集まったり、直接会ったりできるわけです。
なにも、たまたま住んだ近所の人との共同体だけを特別視することはありません。特に大きな組織に属している人は、辞令一つで世界中どこに住むことになるのかわかりません。
インターネットは、世界中の人と共同体を作ることを可能にしました。交通網の発達が、空間の隔たりを縮めた以上に、インターネットは空間の隔たりをなくしました。
これからの共同体は、現実の共同体とインターネットを介した共同体が混然一体となったものになります。人為的な聖地などは不要です。