日本人は宗教に寛容だと言われています。結婚式はキリスト教で、葬式は仏教でも珍しくありません。クリスマスを祝い、正月に神社に初詣に行っても、誰も違和感を持ちません。なぜなのか、自分の子供の時の体験をもとに考えてみました。
私が小学生だったころ、家の近所の町内会館で、毎週、子供向けに聖書の話をしていました。おそらくキリスト教の教会の人が来ていたのだと思います。そこでは、聖書の話以外にも賛美歌を歌ったり、「みなさん、イエス様を信じましょう」というような宗教的な話もしていました。
私は、ときどき近所の友人たちと一緒に話を聞きに行きました。イエス・キリストが出てくる話はあまりおもしろくなく、一度聞くと翌週も聞きに行こうとは誰も言いませんでした。しかし、天地創造の話を聞いた時は興味を持ち、数週間続けて友人たちと連れだって話を聞きに行ったことがありました。そのおかげで、聖書の話は断片的に詳しくなりました。現在でも古事記の話よりもよく知っているくらいです。
教会の人はいつも「イエス様を信じましょう」と言っていました。「イエス様以外はみんな偽の神様です」とも言っていました。今でもはっきり覚えている出来事があります。はじめて話を聞きに来た子供が、教会の人の質問に対して答えた時のことです。
教会の人「神社などにまつってある神様はどのような神様でしょう」
子供 「子供の健康を守る神様です」
教会の人の期待した答えとは違っていました。私は、ここでは「偽の神様です」と答えるのに、はじめてだからわからなかったのだと思いました。子供たちはいつもそう答えていました。私も質問されたらそう答えていたと思います。ただ、それは、その場所ではそう答えることを期待されているために答えるだけで、心の中では神の存在など信じてはいませんでした。
小学生だった私が、教会の人からまったく影響を受けなかったのが今から考えると不思議です。いくら「イエス様を信じましょう」と言われても、まったく信仰心などはありませんでした。
聖書の話は、あくまでも物語として聞いていました。ちょうど私より前の世代の人たちが、黄金バッドの紙芝居を見ていたのと同じような感覚だと思います。天地創造の話は、当然すべてフィクションだと思っていました。
世の中には多様な考えの人がいることに気づくのは中学に入ってからでした。小学生のころは、見たり、聞いたり、読んだりしたことはそのまま受け入れていました。それでも信仰心がまったくめばえなかったのは、「イエス様を信じましょう」と言われても、「神=イエス」ということを知識として持っていたにすぎなかったためだと思います。
単に知識として持っているだけで、神に祈るという感覚をまったく持っていなかったといえます。そのために信仰心といえるようなものは発生しませんでした。
日本人が宗教に寛容なのは、同じような感覚ではないかと思います。結婚式はキリスト教で、葬式は仏教でも平気でいられるのは、形式を取り入れているだけで、それ以上深い精神的なところまで受け入れていないためだと思います。