「人間はなんのために生きるのか」という根本的な問いに対し、「心を高めること、魂を磨くこと」という答えを提示しています。「生まれたときより少しでもましな人間になる、すなわちわずかなりとも美しく崇高な魂をもって死んでいくため」です。
仏教に根ざしたすばらしい生き方だと思います。ここでは、私が気づいた点を3つ上げておきたいと思います。
人生をより良く生き、幸福を得るための方法を式で表現しています。
(人生・仕事の結果)=(考え方)×(熱意)×(能力)
つまり、人生や仕事の結果は、考え方と熱意と能力の掛け算だということです。私はこれを見て、スティーブン・R・コヴィーの「ボイス」を思い出しました。「ボイス」とは、才能・情熱・ニーズ・良心の重なるところです。
「考え方」とは、良心と考えられます。「熱意」は、情熱そのものです。「能力」は、才能です。
違いは、コヴィーはニーズも含めて考えているところと、「ボイス」を見つけ出し、その実現を目指すことに重きがあるのに対し、稲盛さんには、その観点が抜けているところです。現状の仕事が、考え方や熱意や能力、社会のニーズに合っていれば問題ありませんが、そうでなければ状況そのものを変えることが必要です。稲盛さんが、仕事や人生の選択肢がほとんどない時代に青年時代を過ごしたことによる、限界が感じられます。
現代に即して考えれば、ここはやはり、自分の「考え方」と「熱意」と「能力」に加えて、世の中のニーズを踏まえて、これらの積が最大となる人生・仕事を見つけ出すことが、最も大切であると考えることが妥当です。
また、日本人が「美しい心」を失ってしまった原因として、戦後の日本が「能力」に優れた人物を登用し、「人格」に重みを置かなかったためと分析しています。高度成長期までは、確かに「能力」に優れた人物が登用されていたのでしょう。
しかし、その後は「気くばり」に優れた人物が重用されるようになりました。「能力」よりは、「気くばり」に動かされやすいのは人間の性です。「気くばり」は、容易におべっかに変わり、「情」に訴えることにより、汚い金に変化する要素を内在しています。不祥事は、「能力」を重視した結果というよりも、「気くばり」が変化し、「情」に訴えることから生じたさまざまな問題が引き金になっています。「人格」や「能力」よりも「情」に重きをおいた結果が、不祥事を引き起こしています。
「戦後の日本社会では、戦前の国家神道を核とした思想統制の反動から、道徳や倫理がふだんの生活や教育の場から排除される傾向が強まった」ため、「人を殺してはならない、人を傷つけてはならないという」「根源的な道徳規範を失ってしまった」「人を思いやる心、利他の心を忘れてしまった」という部分も気になります。
少年による凶悪犯罪が報道されると錯覚しがちですが、戦前と比較すると、少年の凶悪犯罪は減少していることは、しばしば指摘されています。学校において道徳や倫理が教えられなくなったとしても、殺人や強盗が悪いことであることは、子供は成長する過程で学んでいきます。
人を思いやる心や利他の心の持ちようを、戦前と現代で実証的に比較することは困難ですが、人を思いやる心や利他の心は、道徳や倫理を教えなくなったことよりは、過剰な競争にさらされることにより、阻害されます。道徳や倫理という言葉は、古い時代遅れの社会の規範を、無理矢理に個人に押しつけるものという気がしてなりません。
3つの気になった点をあげましたが、大きな宇宙の一部として、魂を磨いていくという生き方は、カント哲学に通じるものを感じ、人間の普遍性にあらためて感動しました。