今から考えると高校時代の勉強はずいぶんと効率の悪いことをやっていたと思います。
たとえば、高校の数学で対数を学びましたが、logといった表記方法や、計算方法が中心であまりおもしろくなかった記憶しか残っていません。
ところが、大学生の時に読んだ本に次のような対話がありました。
生徒「対数とは、等比級数の等差級数への写像です。」
これを読んだ時、私は
「あっ、確かにそうだ!」
という感覚を持ちました。
対数を、これほど本質をとらえて説明した記述を読んだ記憶はありませんでした。
そして、なぜ、そのように教えないのか疑問を持ちました。
確かに高校では集合論は教わらず、「写像」の定義は知りませんでした。
しかし、そこはそれだけ教えれば良い話です。
考えて見れば、対数をはじめて使ったのは、中学1年の数学の時間に計算尺の使い方を教わった時です。
そのときは、計算尺の使い方だけを教わって、その原理については教わっていません。
その頃読んだ雑誌の記事だったと思います。
『典型的なエンジニア』と題して次のような話が掲載されていました。
ポケットから計算尺を取り出し、計算して、
「5.9、約6か」
計算尺に依存しすぎるエンジニアを揶揄する内容ですが、こんなふうに計算尺を当たり前のように使っていた時代もあったようです。
高校の物理で微積分を使わないのも不思議でした。
せっかく数学で微積分をやっているのに、物理では力学を、微積分を使わずに説明していました。
これらは、当時の文部省が決めたことだけを教師がそのまま教えていたためでしょうか?
今では違うのかもしれませんが、50年近く前の大いなる学習上のムダでした。