佐々木俊尚さんの『21世紀の自由論―「優しいリアリズム」の時代へ (NHK出版新書 459)』には、今後の目指すべき世界を考えさせられます。帯には「生存は保障されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保障されている」のどちらを選択するかと書かれています。
ここでは、『21世紀の自由論』に書かれている佐々木さんの考え方を紹介し、佐々木さんとは異なる私の考えを述べます。
冷戦時代の世界
冷戦時代は単純な世界でした。
米国とソ連がお互いに核兵器を持ち、にらみ合いながらも均衡が保たれていました。ひとつ間違えれば核戦争が勃発し、人類は滅びていたかもしれません。しかし、米ソ間でホットラインを敷設し、お互いに核戦争を避けるための最大限の施策をとっていました。
日本は、米国の核の傘に入り、米軍基地を受け入れることにより、防衛は米国に依存していました。その結果、日本は経済活動にいそしみ、高度経済成長をとげることができました。
その政策を選択した親米保守の自民党と、「反権力」「反戦」「憲法護持」を御旗に、自民党の監視役を担っていた「革新」野党の対立が冷戦時代の日本の政治でした。
現在の世界
冷戦時代とは異なり、現在の世界にはさまざまなねじれが生じています。
現代のリベラルの基本理念は次のとおりです。
人々には生まれながらの自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公平さを取り除かなければならない。
現在の日本の「リベラル」と呼ばれる政治勢力は、この理念からかけ離れています。
本来のリベラルは、「反戦」「徴兵制反対」と直接の関係はありません。自由を妨げる勢力が攻めてきたときの備えも必要です。暴力や圧政に苦しんでいる人たちを助けなければならないこともあります。
日本の「リベラル」はあくまでも「反戦」「徴兵制反対」です。日本だけが平和であるならば、それで良いという考え方です。
イスラム過激派「IS(イスラム国)」は自由や民主主義、男女平等、宗教の多様性などを攻撃しています。このISへの「理解」を示す「リベラル」な人がいます。
日本の「リベラル」は経済成長に対しても批判的です。将来、経済成長がなくなる可能性はあります。その対策を考えることも重要です。しかし、世界中の人が飢えずに健康的で文化的な生活を送るためには、経済成長を持続させることが必要です。
日本の「リベラル」はリフレ政策のような景気浮揚策にも懐疑的です。対して、米国のリベラル派はアベノミクスを評価しています。欧米では「保守」が、政府がお金を使いすぎると、リフレ政策に反対しています。
日本の「リベラル」にはマイノリティ憑依という現象があります。日本国民には、命じられて戦場に行った被害者であり、同時にアジアを抑圧した加害者でもあるという両義性があります。その「被害者でもあり加害者でもある」から「被害者」を取り除き、抑圧されたマイノリティの側から日本を批判するのがマイノリティ憑依です。
食品や環境などに絶対安全を求めるゼロリスクの考え方も、日本の「リベラル」の問題です。どんな問題にも絶対安全はありえません。リスクの大きさと発生する確率から、とるべき対策を考えるリスクマネジメントの考え方が必要です。
日本の「保守」は伝統的価値観を重く見ます。ただし、日本の「保守」が主張する伝統的価値観である「家」や「国」は、日本古来のものではありません。明治以降に作られたものです。
冷戦時代からの「親米」は、日本の「保守」にジレンマをもたらします。米国の追い求める理念と日本の「保守」の考える社会は、まったく方向が異なります。
日本の「保守」は「親米」に引きずられグローバリゼーションを受け入れる傾向にあるのに対し、日本の「リベラル」はグローバリゼーションに反対しています。「リベラル」にも江戸時代の循環社会を理想とする人がいます。どちらが歴史と伝統を大切にしているかわかりません。
ネット右翼と言われる排外主義は、インターネットリテラシーの低い人には匿名に見える2ちゃんねるなどの普及で、表に現れてきました。インターネットは、匿名だと勘違いした人が排外的な発言を吐き出す場となりました。
これには、日本の「リベラル」とマスメディアの「マイノリティ憑依」へのアンチテーゼという面があります。また、「親米保守」に疑問を抱く層が「反米保守」を構成する流れも起きています。
佐々木俊尚さんの考える未来
佐々木俊尚さんは、ヨーロッパが形成してきた「普遍的なもの」は消滅したと言います。グローバリゼーションによる世界のフラット化によって、内部と外部を分ける壁も消滅しようとしていると言います。
これからしばらくの間は、長い移行期があると見ています。そこで必要なものは、「優しいリアリズム」です。
理念として正しいかどうかではなく、生存や豊かさの維持というような具体的な目標を達成できるかどうかが重要になります。
偶発的な戦争を恐れたうえでのリアルな戦略が必要と考えています。軍事的な均衡が平和の礎になるという考え方です。
ただし、リアリズムという冷たい論理の中に、「情」を持ち込むことを主張しています。理には負けたけれども、情で救ってもらったと安心できる部分を残しておきます。
移行期には生存すること、生き延びることが大切だという考え方です。
移行期の先にあるのがネットワーク共同体です。
「普遍的なもの」が消滅し、領域的な国民国家が衰退したあと、人は規模の小さな共同体に所属して生きていくしかありません。
しかし、その小さな共同体は情報通信テクノロジーによりつながっています。個人と個人がそれぞれつながり、同心円状の円環がいくつも重なり、無限に広がっていきます。そこには内と外の明確な境はありません。
この共同体は過去の共同体が持っていた内部での抑圧と外部の排除という問題を解消する可能性を秘めていると考えています。
私の考える未来
私には「普遍的なもの」が消滅したとは思えません。
人々には生まれながらの自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公平さを取り除かなければならない。
これこそが普遍的なものです。ここが佐々木俊尚さんと私の意見の異なるところです。なぜ、「普遍的なもの」が消滅したと考えるのかわかりません。
自由を怖れ自由から逃げ出す人がいることは、エーリッヒ・フロムの指摘している通りです。だからといって、自由を放棄しては、人は幸福感を得られません。
性別も人種も習慣も能力も異なるさまざまな人が、公平である社会こそ目指すべき社会です。そのためには、自分に適した生活を選択する自由が不可欠です。
人には自由の怖さに立ち向かう勇気が必要です。
現在の日本の「リベラル」がこの基本理念とかけ離れていることは同意します。「リベラル」と「保守」のねじれ現象も同意します。
優しいリアリズムが必要なことも同意します。生存すること、生き延びることは大切です。人類の滅亡は避けなければなりません。
情報通信テクノロジーが新しい共同体を作ることも同意します。このゆるやかにつながった共同体は、内部での抑圧と外部の排除の問題を解決します。内部で抑圧された人は、簡単に外部に逃げることができます。境がなくなりますから、外部の排除も意味がなくなります。