ハロウィンで仮想して街に繰り出す人が、ここ数年で急速に増えています。この現象についてはさまざまな意見があります。
本来のハロウィンとは違う
ハロウィンは古代ケルト人が起源と考えられている祭りです。秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味がありました。
米国では民間行事となり、カボチャをくりぬいて飾ったり、子供が仮装して、近くの家を訪れ、お菓子をもらう風習になりました。
それが、日本では若者が仮装して、街を練り歩くようになったわけです。
風習が他の地域に広がるとき、変質していくことは、よくあることです。目くじらを立てることではありません。
本来のハロウィンとは違うと批判することは、意味がありません。
日本には日本の風習がある
ハロウィンは日本の風習ではないと否定する意見もあります。そういう人は、クリスマスやバレンタインデー、ホワイトデー、ボージョレヌーボーなどにも否定的です。
元来、風習や習慣は、社会の変化や技術の進歩に従って、すたれたり広がったりするものです。
古来から日本に伝わる風習や習慣だけを特別視する意味はありません。
むしろ古来の風習や習慣には、その時代の制約から生まれ、人権を侵害するものがあります。
家父長制、大家族制などがその例です。生産性の低かった時代には、生まれた子供を平等に扱うだけのものがありませんでした。その結果、長男を優遇し、その他の子供は単なる労働力として扱いました。
小作農の家では、冷害になると娘を女衒に売るということは、1945年まで行われていたことです。女衒に売られた娘は、売春を強要され、病気になればゴミのように捨てられました。
家父長制や大家族制は、そういうものと結びついて成り立っていた制度です。制度の良かった面だけに注目して、古来の日本の風習は良かったと懐かしむものではありません。
商業主義に毒されている
商業主義に毒されているという声を聞くこともありますが、ハロウィンには特定の業界や会社が主導しているという印象は受けません。
市場規模はバレンタインデーとほぼ同等ということですが、バレンタインデーがチョコレート会社の意図を強く感じるのに対し、ハロウィンはそうではありません。
強いて言うと、コスプレのための衣装を提供している業界でしょうか?
日本には、お歳暮やお中元といった、もっと商業主義に毒された風習が昔からあります。
まとめ
風習や習慣は、すたれたり広まったりするものです。
本来のものとは違うとか、古来の日本にはなかったという批判は無意味です。
その時代や地域の人たちに受け入れられれば広まるし、そうでなければすたれていきます。
ゴミを散らかしていくようなことがあれば、世の中に受け入れられるとは思いません。