体罰問題の裏にあるもの

バスケットボール

 ここ数日、体罰問題が新聞等を賑わしています。そもそも暴力は、現代の日本では法的にも認められておらず、スポーツの世界が例外である理由はありません。

 それにもかかわらず、これほどの議論になるのは、愛のある体罰ならば良い、体罰はやむを得ない、生徒を発奮させるために体罰は必要だというような体罰擁護論があるためです。

 まず、体罰が生徒のためになるかを考えてみます。ミスした時に体罰を受ければ普通は萎縮します。体罰を受けないことを最優先に考えて、安全策をとるようになります。野球で言えば、三振して体罰を受ければ、バットを当てにいくだけになります。こうしたことが、生徒の技量向上に役立つはずがありません。生徒のためにならないものに、愛はありません。

 生徒を思うように動かすために体罰を使うことは、指導力が未熟なだけです。人に影響力を行使する方法は、いろいろありますが、暴力を使うという方法は最悪の方法です。自らの指導力の未熟さを棚に上げて、体罰はやむを得ないなどと言うことは許されないことです。

 発奮させるというのもまやかしです。発奮しているのではなく、反発し恨みを募らせているだけです。そして、その矛先は次の世代に向かっていきます。自らが指導者となった時に、自分の受けた体罰の仕返しを自分の生徒に対してしているのです。

 また、自分の感情のままに行動するために体罰を行使する指導者もいます。子供のように自分の感情をコントロールできない人です。こういう人は、指導者としてふさわしくありません。

 体罰をなくすためには、体罰擁護論が誤りであることを広く認知させることです。制度上体罰は禁止されていても、本音では体罰は必要だと考え体罰擁護論を信じている人がいる限り、体罰はなくなりません。

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