「意識高い系」という言葉がからかいとともに使われているのをよく目にします。また、キャリアポルノという言葉もあります。どちらもその裏には危険な意識が隠れているような気がします。
意識高い系
「意識高い系」という言葉は、セルフブランディング、人脈づくり、読書、勉強会などに精を出していても、実力が伴わない人をさしています。そのような人は、ソーシャルメディアでの自己アピール、キャリア自慢、人脈自慢が多い傾向にあります。
確かに実力が伴わない自慢は鼻につくとは思います。
しかし、「意識高い系」という言葉には、社会的・経済的地位の上昇をめざし努力する人を揶揄するような意味も含まれているように感じます。
キャリアポルノ
キャリアポルノとは、『キャリアポルノは人生の無駄だ (朝日新書)』(谷本真由美著)によると、キャリアにおける代償行為として自己啓発書を読むことです。
すなわち、自己啓発書などを読んでも、何の行動もせず、勉強だけで終わってしまうことです。
この意味では、キャリアポルノは人生の無駄だという主張には同意します。
しかし、ブログ記事『煽り過ぎです!『キャリアポルノは人生の無駄だ』』にも書きましたが、自己啓発書などで勉強すること自体を人生の無駄だと言っている部分もあります。
まとめ
「意識高い系」やキャリアポルノは、努力の方向が間違っている人や中途半端な努力をさしていると言えます。
しかし、どちらの言葉も努力すること自体を笑いものにする使い方がされます。その裏には、努力なんかしても無駄だ、「身の程をわきまえろ」という主張が見え隠れします。
格差社会といわれて久しくなります。高度経済成長の時代は、努力は報われると信じられていました。デフレと言われる時代となり、就職難にあえぐ若年層が登場し、努力しても意味はないと考える人が現れました。
そこに、江戸時代の固定化された身分のように、「身の程をわきまえろ」という意識が出てきているように感じます。
しかし、階層間の流動性は社会の活力となります。「身の程をわきまえる」という意識は、社会の活力を弱めます。
「意識高い系」やキャリアポルノという言葉は、向上心にあふれる人を軽く見ることにより、社会の発展の足を引っ張るものです。
少なくとも他人の努力を笑いものにすることのないようにしたいものです。