「闇の人事制度」から平等な社会への道

携帯と女性

ここのところ女性の社会進出に関するニュースが相次いでいます。

ニュースについては、『“闇の人事制度”と“女性が輝く社会”のいびつな関係:日経ビジネスオンライン』に紹介されています。

1995年から9年半の歳月をかけて暴かれた闇の人事制度がありました。女性はどんなにがんばっても、どんなにスキルを磨いても、女性である限り最低ランクの評価だったそうです。

最近では、女性閣僚2人の辞任、厚生労働省の女性係長が訴えた昇任・昇格男女差別、最高裁の「マタハラ」判断と続き、女性の働く機会を巡る時代の変革期を感じさせます。

しかし、そこに能力が絡まると問題が複雑になります。

「機会」は性別や年齢、人種など、自分ではどうすることもできない属性に対しては、平等に与えられるべきだが、そこに「能力」という変数が加わった途端、何が平等なのかを見極めるのが、極めて難しくなる。

「女性は子供を生んで家を守るべき」と考える人もまだいます。男性と女性に等しい機会を与えるべきという考えも十分に広まっていると言えません。

ましてや、能力による待遇の差があるのは当たり前で、能力を発揮する場を得られる機会が平等であれば良いと考えられています。

能力が足りなくて機会が手に入らないことや競争に敗れて機会が遠のくことは、機会の平等に反することではありません。

むしろ、能力が不足しているにもかかわらず、親が政治家であったということで大臣になることのほうが、機会の平等とは言えません。これは、男女かかわらず言えることです。

〇○のxx%を女性にすべしと数値目標を定め、結果として、逆差別を発生させることも機会の平等とはいえません。

性別・年齢・人種などで差別されることなく、平等に機会が与えられる社会が望ましいことは間違いありません。しかし、問題はその先にあります。

私は、以前、『人類にとってなくすことが最も難しい差別は何か』という記事を書いています。ここで、人類に最後まで残る差別は、能力による差別だと論じています。

人間の能力は人それぞれです。能力は、生まれつきの才能、育った環境、本人の努力などに依存します。

ある能力に優れた人だけが裕福になる社会は平等な社会とは言えません。それぞれの人が、自分の才能を十分に発揮し、どのような能力を持った人でも、裕福になる機会が与えられる社会が平等な社会です。

それは、画一的な企業社会に適した能力を持たなくても、他の面で能力が発揮できる社会です。企業社会に適応したくない人が、フリーエージェントとして働けるようになってきていることが、そのような社会の到来が近いことを示しているかもしれません。

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