「学問とは何か」
中学3年の国語の授業中に先生が生徒たちに、そう問いかけた時のことです。私は、その数ヶ月前に読んだ太宰治の「斜陽」の中の言葉を反射的に思い出しました。「学問とは人間が人間でなくなろうとする努力である。」厭世的な登場人物が日誌に書いた言葉です。
私が手を上げようか迷った瞬間、先生が私に向かって言いました。
「何か言いたそうね。」
仕方がないので、私は答えました。
「学問とは人間が動物でなくなろうとする努力です。」
太宰治の言葉をそのまま言おうかと一瞬思いましたが、誰も意味がわからず戸惑うだろうなと考えました。そこで、一部変更して答えました。
中学時代の記憶の断片です。
太宰治の言葉は、その逆説的な表現で記憶に残りますが、それ以上のものではありません。登場人物が薬物中毒の頭で考えた前提の表現に過ぎず、その意味は検討するに値しません。
「なぜ、学ぶか」と問われれば、私は「面白いから」と答えます。運動をするのが快感で楽しいのと同じように、頭を使うのが快感で楽しいからです。おそらく、ニュートンもアインシュタインも自分の理論が役に立つとか、名声が得られるとか、金になるとか考える前に、自らの興味に従って考えただけだと思います。人類の進歩の大部分は、世俗的な欲に駆られてではなく、本能的な喜びの追及によってもたらされています。